雨乞山には夕日が沈んで

細く長く、地元の昔話を読んだり実際に見に行ったりしています

大蛇について先程聞いたばかりのお話のこと

祖父が生まれた地域の堤についてのお話を見かけたので、祖父に「あの堤って大蛇が出たという話があるの??」と聞いてみたところ、「ちょっと違う地区だから聞いたことがないが、他の堤の大蛇の話なら聞いたことがあるぞ」ということで、この記事を書いてる30分ほど前に以下2つのお話を聴いてきました。

祖父の祖母から聞かされたお話

私の高祖母に当たる人から、子供の頃に聞かされたというお話である。
以下、祖父の祖母を婆様と書く。*1

祖父の家の近くの山の中に牛ヶ淵という堤がある。
ある日、婆様の父(それか旦那に当たる人。祖父曰く、どちらかわかりにくい呼び方だったらしい)は堤の近くで木に登って枝打ちをしていた。
何の気なしに堤を見ると、水面がやけに波立っているのが気づいた。
最初は「水鳥(婆様の話では、もっとちゃんと鳥の名前を呼んでいたらしい)の群れでも来たのだろうか?」と思っていたそうだが、何だかおかしい。
段々と姿がはっきりしてくると、堤を波立たせていたのは真っ赤な口を大きく広げた大蛇だったそうだ。
それをみるや、木から慌てて下りて一目散に家へ逃げ帰ったという。

まぁ、婆様が昔話にしてるし、私がこうして生まれているので、無事に逃げ帰れた模様。

最近、奥吉田地区の人から聞いたというお話

今もあるという奥吉田地域の人から聞いたというお話。
祖父曰く、本当に割りと最近、人から聞かされたとのこと。
但し、祖父の「最近」は、延喜式に載ってるような神社の安土桃山・江戸ぐらいに起きた出来事にも使われるのでちょっと怪しい。

少なくとも今よりも昔のこと。
奥吉田地区のある人が薪を拾いに山に入ったそうだ。
せなこう*2一杯に薪を積んで、上に笹もかぶせ*3、しっかり紐も括りつけ、さあ後は背負って帰るだけだ、という時にものすごい音が響いているのに気づいた。
何の音なのかとまとめた薪の向こうを見ると、大蛇が大イビキをかいて眠っているのが見えた。
その人は、薪も持たずに慌てて家に逃げ帰ったそうだ。

それから、数日後のこと。
大蛇は怖いが、せなこうに沢山載せて後は持って帰るだけの薪はとてももったいない。
そういうわけで、逃げ帰った人は、近所の人に理由を言わずに、「山の中に薪を置いてきたんだが、取ってきてくれないか?」と頼んだらしい。
その近所の人は了解して取ってきた薪を渡した時だかその後だかにその話を聞かされたという。

で、祖父はその薪を取ってきた近所の人からそのお話を聞いたらしい。



以上、つい先程祖父からお話2つである。

ちなみに、祖父から以上の2つのお話の舞台のお山は同じお山である。

*1:祖父が○○の婆様と呼んでいたので。

*2:背負子のこと。漢字は不明。ここらへんの方言でそう呼ぶらしい。私は使う場面が無いので知らなかった

*3:防水用の笹である

石川県道192号を行ってきた(廃村もあるよ)

暇だったので、そこそこの険道であるらしい石川県道192号をドライブしてみました。

石川県道192号河内藤瀬線 - Wikipedia

正直写真はあまりありません。
地図も持たずに、スマホのアプリを頼りに進んだのですが、途中から山奥なのでロクに通信も出来ず、頼りになりませんでした。
こういうのがデジタル化の弊害というヤツですね。

兎に角。
スタートは終点である七尾市中島町藤瀬の県道23号線との交差地点からです。

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能登島の昔話の妖怪のこと

平成20年にふるさと再発見講座 のとじまの昔話の会より刊行された『のとじまの昔話』をところどころ読んだので少し覚書。
ロクにメモをしなかったので、後で書き足すかもしれない。

・鍛冶屋の婆
島別所に伝わる。有名な昔話の類型・千疋狼のものとほとんど変わりない。

・河童のような妖怪の呼び名について
「みすず」という。
中島町地区の「みそし」に近いものなのかもしれない。

・向田の猿鬼について
能登島の向田に現れたという猿鬼。
藤原不比等の次男に義直という人物がおり、彼が弓を鳴らし猿鬼をおびき出し征伐したと伝わる。
なんとなく倒し方は平家物語の『鵺』っぽく感じた。
義直という人物、実在はしなかった模様。*1

【参考】
かわうそのこと - 雨乞山には夕日が沈んで
能登島のムジナを扱ったのだった

*1:河内源氏っぽい印象の、いかにもそんな感じの名前

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そういえば長氏ってすごいよなーってはなし

地元の殿だ!すごいぞ強いぞ!って話ではないんですが。

畠山七人衆のほとんどが畠山氏にもともと仕えていた氏族出身が多いんですけど、長氏は元々能登の領主だったのに重臣になっているのに私感心。
それぞれの氏族がどのタイミングで仕えるようになったかは勉強不足がはっきりとはわかりませんが、一応温井氏は桃井氏から別れたのだよということになっているので、どの氏族も足利氏の一葉である氏族が多いようですが、長氏は割りと地元枠で、上手いこと畠山氏の体勢に入っていったのだなぁと感心するものです。*1元々、鎌倉とも上手いことやっていたようですし、つながり自体はあったんでしょうが。
畠山氏が地元勢力を上手いこと取り込んだほうが統治が楽だったとかそういうのもあるかもしれませんが、能登もちゃんと南北朝期に戦があったので、長氏が上手く時流を読んだというのもあるんでしょう。


で、さらにそこから天下泰平の江戸となって、今度は加賀八家の1家になってるわけですよ。
八家のうち二家は前田家で、四家は前田家譜代。残る二家は本多家と長家なわけです。
本多家は、初代が福島正則宇喜多秀家といった名立たる武将に仕え、お負けに直江兼続の婿養子になったりしているという波瀾万丈な人物なので、前田家でも重用されたのはわかります。あと、腸の腐ったほうの本多さんの息子さんなのでスパイ説とかあったりするので大変面白い。
本多さんはさておき、やはりここでも唯一の地元枠。
加賀の富樫氏や他の畠山氏の旧臣がパッとしない中でのこの立場は上手くやったのだなぁと感心しきりです。
その立場に至るまでの経緯も大事だととはいえ…その後も浦野事件なんていうピンチもあったのに、お取り潰しに会わなかったものだとも感心です。

*1:遊佐氏は小山氏から別れた氏族

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力六と河童のこと

七尾市中島町上町地区が舞台であるミソシ(いわゆる河童)の民話である。
あらすじとしては、六人力の力の持ち主であった男・力六が、天狗に勝って百人力の力を授かり、その怪力を河童に見込まれ熊木川で悪さをした大蛇の退治を依頼され、見事こなすと河童から金と妙薬を授かったというお話である。

鹿島郡中島町の民話集である『いろり火』には逸話は掲載されているものの、舞台についての記述はない。
平成八年に刊行された『中島町史』によると、この民話が中島町上町地区のものであると記されている。

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温井舘址に行ってきた

前々からよく通る道の近くにあるらしいので行ってきました温井舘址。
どうでもいいんですが、太閤立志伝とかで温井景隆ゲットしても、大してステータス高くないので使いドコロが無いというか、もっとステータス高い他の武将を使っちゃうので持て余しちゃうんですよね。ほんとどうでも良い。
というか、能登畠山氏関連の武将は織田氏関連の武将と比べちゃうと平均的に低いんですけどねー。コーエー史観ってこうして根付いていくんだな。

閑話終了。以下に、行ってきた時の写真などを貼っておきます。

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アクセス解析にあった「石川県七尾市中島町豊田」のこと

やる気とネタがあるときにしか書かないこのブログなんですが、久しぶりにアクセス解析なんてものを見てみたら「石川県七尾市中島町豊田 伝説」なんてログがありました。わお、とってもピンポイント!そんな方々へつらつら書いてみますよ。
うろ覚えと手元の資料だけで書くので、補完して参考にしてくださいませませ。

豊田の地名

今でも「トイタ」と発音する人がいるが、これは幕末辺りに書かれた『能登志徴』でも「発音がおかしい」とかあるんですが、数百年そう発音していたら、「トヨタ」でも「トイタ」でもどっちでも正解だよ、って言う気になります。
「トイタ」と発音するのは、いまの金沢市戸板の辺りの武士が治めていたための名残だそう。
となりの豊田町は豊田から独立した地区である。安土桃山~江戸初期の間に独立はしたらしいが、何時なのかははっきりしてない模様。
あの辺りの地域の名前『豊川』は、特に大きな村だった豊田と土川からとって付けられたとのこと。

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