鹿島半郡のこと
ここでは天正8年(1580年)9月1日に長連龍が織田信長から与えられた鹿島郡半分にあたる領地のことである。
『長氏文献集』によると、
其趣は今般鹿島郡川西半郡領掌之儀、於菱脇得大利、金丸等之敵城を攻、軍功無比類被感思召處也。然者依為一所懸命之地、先此分被下置之。長家始祖信連以降傳来之郡縣等、重而可有御加恩。且又奸人等之儀、畢竟可被御下知旨也。
とのこと。
ここでの川は二宮川のことで、文字通りなら、領地は現在の中能登町(旧鳥屋町・旧鹿西町・旧鹿島町は大体半々)・旧田鶴浜町・旧中島町がその領地にあたる。
長連龍は前田利家の与力となり、本能寺の変後は家臣となるが、
信長から直接与えられたという経緯から、前田家も手出しできない長家の固有の領地として領有されることとなる。
半大名的な半郡の領有は寛文11年(1671年)まで続いている。*1
*1:後々のいざという時離間の計に便利だからと許していたとなれば、さすが秀吉、さすが家康といったところ