雨乞山には夕日が沈んで

細く長く、地元の昔話を読んだり実際に見に行ったりしています

三州奇談にある富田流のこと

三州奇談に富田流(中条流)についての記述があり、剣豪の名前がどやどや出てきて面白かったので、なんとなく分かりやすいような現代語に直して記録しておく。自分が後でわかりゃぁいいので、ただしい日本語云々は知らないのである。ちなみに、句読点は原文のままであり、改行等は自分が見返しやすいようにしたものである。

 富田越後入道日源(重政)は、山崎氏にして、江州佐々木承禎*1の氏族である。訳あって当国*2の祖君利家公に仕え、山崎六左衛門と名乗って、末森城の戦いの時分も手柄を顕し、それからは毎度功を上げ、その後富田治部左衛門(景政)の婿になって、姓名を改め、次第に登用され越後守となり、一万三千五百石を拝領し、七手の旗頭のうちに入り、さらに中条流の奥義を極め。その名は夜に轟き、剣術*3は万人より秀で、天下無双と呼ばれて、将軍家光公のお目にかかったという。
 またその門人に山崎左近*4・長谷川宗喜・印牧月斎*5という、世にも優れた妙手がいた。これを富田の三家*6と言う。関白秀次公の時、宗喜と疋田文五郎*7に兵法の勝負があり、世に名高い人である。
 この山崎左近には三人の子供がいた。小右衛門・内匠・次郎兵衛という。次郎兵衛は慶長五年*8大聖寺の戦いの際に、一騎当千の勇ましさを顕した。
 そもそも中条流の起源は、昔相州山田地智福寺に僧の慈恩*9という者がおり、摩利支天に夜通し祈願して得たことを、檀家*10中条兵庫助(長秀)に伝えて、甲斐豊前守(広景)に伝え、大橋勘解由左衛門(高能、惟房)より、富田九郎右衛門(長家)・治部左衛門(景家)に至る。
 景家には二人の子がいた。兄五郎左衛門は眼病にかかり、江州一乗寺村に閑居して、薙髪し、勢源*11と名乗り、諸国武者修行して、世に名高い人である。 
 その弟治部左衛門(景政)が家督を継いで、非常に妙手である。秀吉公の師範となる。その人には女子が二人いたが男子はいなかった。そこで門弟であった山崎六右衛門を嫡女と結婚させ、家を継がせた。これが越後守のことである。

『三州奇談』「怪石生雲」より

話は続くが、富田流についてはここまでである。
冨田勢源、眼病にかかってからよくも武者修行を出来たなぁ。

*1:六角義賢のこと

*2:加賀国

*3:剣だけではなく槍なども扱う

*4:富田重政の兄弟

*5:鐘巻自斎のこと

*6:富田の三剣」ともいう

*7:疋田景兼のこと。通称は五郎という表記のほうが有名か?ちなみに出生地は石川県であるらしい。マジか

*8:1600年。関が原の戦いの年である

*9:出身は奥州で、出家し修行に入った寺が相州

*10:原文では「檀越」。弟子という意味で使っているのだろう

*11:佐々木小次郎の師匠説がある。太閤立志伝ではお世話になりました。カモ的な意味で